2014年6月6日金曜日

0606 寝殿造概説と六条院


「寝殿造概説」

 平安時代の貴族邸宅を寝殿造と呼ぶが、後代の書院造と合わせて伝統的日本住宅の二大様式として知られており、この命名は江戸時代末期の国学者沢田名垂の「家屋雑考」に拠っている。床・棚・書院」などで構成される書院造との大きな相違は、固定的間仕切りが少なく開放的で、室内設備もなく、玄関や会所(応接間)などの接客空間が独立していないことである、
 
  敷地は、原則として公卿以上が一町(120m四方)で、14,400平方メートル、約4364坪)で、四、五位の殿上人は二分の一町、六位以下は四分の一町と決められていたが、寝殿造という場合は、一町を基本として考えられている。しかし、四町からなる冷泉院(後院)や高陽院(藤原頼通邸)、南北二町からなる東三条殿などもあり、『源氏物語』の六条院も、四町からなっていた。


 敷地の周囲は、築地(ついじ)と呼ぶ土塀をめぐらし、東西あるいは北に正門を設ける。敷地の南北に通る中心軸上に主屋となる東西棟の寝殿(正殿の意)を南向きに建て、その東西にあるいは北に対(たい)と呼ぶ構造的には同じ副屋を設けて、左右対称に配置する。東西の対は南北線、北の対は東西棟になる。寝殿も東西の対も中央部を母屋、その周囲を(庇)といい、さらにその周囲に簀子(すのこ)とよぶ濡れ縁がある。建物の大きさは、「五間四面」の寝殿というように間面(けんめん)表記で表す。これは、母屋の桁行が五間で(梁間は普通二間になるので特にいわない)、その周囲に一間の廂が取り巻き、南正面から見れば七間に見えるものをいう。一間の柱間隔は一定しないが、約3メートルぐらいらしい。


 寝殿と東西の対の間は、二帖の渡殿(わたりどの)でつなぎ、南側が吹き放しの透渡殿(すきわたどの、北側が壁で覆った壁渡殿になり、ここは居住空間のにもなる。東西の対から南に中門廊を寝殿南庭の池あたりまで延ばし、そこが釣殿(つりどの)になる。中門廊の中間に中門を設け、その外側あたりに車宿(くるまやど)・随身所(ずいしんどころ)・侍所などを置く。

 敷地内には、このほかに御堂を造ったり、が置かれたりし、敷地の北側には雑舎(ぞうしゃ)(下屋)が設けられる。南庭には、寝殿側に砂子(白砂)を敷き、池のあたりに築山が設けられたりする。池には、反り橋(そりばし)を渡して築山にした島が作られ、泉や邸外からの導水路より引いた遣水(やりみず)と呼ぶ水路を寝殿の脇から引く。



「六条院平面図」

  光源氏三十五歳の時に、六条御息所の故地を取り入れて完成させたのが六条院で、その様子は「少女」巻で語られている。四町からなり、南東が春の町で紫の上、南西が秋の町で秋好中宮、北東が夏の町で花散里、北西が冬の町で明石の君が住み、それぞれの町にふさわしい四季の植物が前栽に植えられた。春の町の寝殿は、明石の女御が里下がりした時に使用され、また、「若菜上」巻で光源氏に降嫁した女三の宮もこの町の正妻として住むことになったので、紫の上は東の対に移り、寝殿は東西に仕切られて使用された。光源氏の幼女となった玉*は、夏の町の西の対に住むことになった。

 六条院の推定図は各種作製されているが、ここには池説と玉上説を掲げた。大きな相違としては、全体的には各町の区切り方や門の配置、東側の馬場馬場殿の取り方がある。各町では、春の町の西二の対の位置や遣水の引き方、夏の町の遣水の引き方と池の配置、および池説の曹司町の所在などがある。また寝殿の大きさと塗籠の存在にも相違がある。

(秋山 、小町谷照彦 編『源氏物語図典』小学館、200526項)


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